砂時計の穴をさらさらと、この瞬間にも現在は過去へと送り込まれてゆく。
それは同じ一定のリズムで普遍である。
しかし同じ時間も、同じではない。濃い過剰な時間もある。
凝縮したその時を、時に人は特別な呼び方をする。
植物に例えれば、花のような時ともいえようか。
しかし植物にも、花の時もあれば実の時もある。
ヤマシャクヤクの春の清楚な白い花、妖しい秋の赤紫の実。
どちらも凝縮したある時なのだ。
自然は淡々と時間の経過を生き物の様態でその姿を見せてくれる。
しかし人間には、もうひとつ心の様態として、その姿を保つものがある。
記憶に刻まれる時間である。
時にそれは、自然に反して過剰であることがある。
愛のかたち、哀のかたちがそうだ。
時代の奔流にもそれが生まれる。
植物でいえば、自然環境といえるものが、人間にはもうひとつ社会環境という
環境があって、家庭だったり、もっと広く社会だったりする。
その中の人間関係が人を過剰にもし、過激にもする。
その記憶は濃く、同じリズムの自然の時間とは異なるものだ。
記憶に刻まれるこの時間を、表現者はなんらかの形にする。
それが音楽という器に盛られたたり、美術という器に盛られたり、文字という器
に盛られたりする。そして、ある凝縮・結晶が為される。
過剰にして凝縮したその時間は、追体験を深める不思議な心の器である。
そこでは、人それぞれの物語の時間が活き活きと甦る。
しかしその過剰なるものは、決して幸せな時間が創るものではない。
凝縮し過剰なる力業には無理という業が、その背後にはある。
淡々と流れる時間に逆流し、止(とど)め、渦巻く、その過剰なるものを、
しかし時に人は命と感じ、記憶と呼ぶのだ。
哀、愛、夢、挫折、傷痕・・・。
いろんな呼び方で誰もがその包まれた記憶を有している。
作品と呼ばれる創造物には、その基底にいつもそうした契機が潜んでいる。
優劣は結果に過ぎない。
個々の記憶の形象に潜むその物語を、私は大切にそっと触れてみる。
自らにも潜む隠された物語と、どこか共有するその波長を確かめるかのように。
今週は女房の3回忌が来る。これも濃い時間のひとつのささやかな物語である。
土、日の酒井博史さんのてん刻ライブまで出入りする日が続く。
*酒井博史てん刻ライブー6月6日(土)-7日(日)am11時ーpm7時
*チQ沖縄からのポストカード展「まちぐゎーー69」-6月9日(火)-21日(日)
*中嶋幸治展「エンヴェロープの風の鱗」-6月23日(火)-7月5日(日)
*及川恒平フォークライブ「TASOGARE」-6月28日(日)午後6時半~
入場料3000円・予約2500円
*中川かりん展ー7月7日(火)-12日(土)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503