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テンポラリー通信

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2009年 06月 03日

過剰な時間ー風のRondo(2)

砂時計の穴をさらさらと、この瞬間にも現在は過去へと送り込まれてゆく。
それは同じ一定のリズムで普遍である。
しかし同じ時間も、同じではない。濃い過剰な時間もある。
凝縮したその時を、時に人は特別な呼び方をする。
植物に例えれば、花のような時ともいえようか。
しかし植物にも、花の時もあれば実の時もある。
ヤマシャクヤクの春の清楚な白い花、妖しい秋の赤紫の実。
どちらも凝縮したある時なのだ。
自然は淡々と時間の経過を生き物の様態でその姿を見せてくれる。
しかし人間には、もうひとつ心の様態として、その姿を保つものがある。
記憶に刻まれる時間である。
時にそれは、自然に反して過剰であることがある。
愛のかたち、哀のかたちがそうだ。
時代の奔流にもそれが生まれる。
植物でいえば、自然環境といえるものが、人間にはもうひとつ社会環境という
環境があって、家庭だったり、もっと広く社会だったりする。
その中の人間関係が人を過剰にもし、過激にもする。
その記憶は濃く、同じリズムの自然の時間とは異なるものだ。
記憶に刻まれるこの時間を、表現者はなんらかの形にする。
それが音楽という器に盛られたたり、美術という器に盛られたり、文字という器
に盛られたりする。そして、ある凝縮・結晶が為される。
過剰にして凝縮したその時間は、追体験を深める不思議な心の器である。
そこでは、人それぞれの物語の時間が活き活きと甦る。
しかしその過剰なるものは、決して幸せな時間が創るものではない。
凝縮し過剰なる力業には無理という業が、その背後にはある。
淡々と流れる時間に逆流し、止(とど)め、渦巻く、その過剰なるものを、
しかし時に人は命と感じ、記憶と呼ぶのだ。
哀、愛、夢、挫折、傷痕・・・。
いろんな呼び方で誰もがその包まれた記憶を有している。
作品と呼ばれる創造物には、その基底にいつもそうした契機が潜んでいる。
優劣は結果に過ぎない。
個々の記憶の形象に潜むその物語を、私は大切にそっと触れてみる。
自らにも潜む隠された物語と、どこか共有するその波長を確かめるかのように。

今週は女房の3回忌が来る。これも濃い時間のひとつのささやかな物語である。
土、日の酒井博史さんのてん刻ライブまで出入りする日が続く。

*酒井博史てん刻ライブー6月6日(土)-7日(日)am11時ーpm7時
*チQ沖縄からのポストカード展「まちぐゎーー69」-6月9日(火)-21日(日)
*中嶋幸治展「エンヴェロープの風の鱗」-6月23日(火)-7月5日(日)
*及川恒平フォークライブ「TASOGARE」-6月28日(日)午後6時半~
 入場料3000円・予約2500円
*中川かりん展ー7月7日(火)-12日(土)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2009-06-03 12:30 | Comments(0)


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