正面一面に花の壁が大分出来上がってきた。
真ん中が少し抜けて、白い壁が見えゲートのようである。
ふっとある既視感に囚われていた。
前のスペースの二階の窓を思い出していたのだ。
夏秋蔦が窓の周りを囲み、屋根の向こうの銀杏の木が見え、円山が見えた。
冬は氷柱が下がり、枯れた蔦がその周りにあった。美しい窓だった。
都心のビル街を抜け、この窓の風景と対面した時は嬉しかった。
ビルの中では風景を見ることがなかった。雨も雪も見えず、濡れた傘を持った人
が来て初めてそれと解かるのだ。そんな空間から抜け、この窓を通してさっぽろ
の原風景を感じた。山と樹と空と雪と氷柱と生い茂る蔦、そこに生息する毛虫の
旺盛な食欲すら美しく感じた。その毛虫がいずれ蝶になり飛んでいく事を思った。
蔦は毛虫に葉を食べられても、その後再び葉を繁らせた。秋には赤く紅葉し実を
結んだ。日々の光は一様ではなく、毎日が小さなドラマを保っていた。
この窓から私は多くのことを学んだ。風、川、木、空、季節、その変化を。
空気中を風が流れるように、地を水が流れる。その自然な流れを学んだ。
その天地にさっぽろがあり、イシカリへと広がる世界があった。小さなしかし確実
な存在、ゾーンとしての国を思った。私が生きている天地、ランドである。
それは、国家とは違いもっと等身大の広がりを保つものだ。
都市が人工の極みへと、非等身大の大きさを競うように拡大し膨張し続けた中で
喪ってきた何かでもある。
街の変遷と共に生きてきた私の人生で、初めて触れた日常としての自然があった
。あの窓は私にとって、そうしたさっぽろの自然の風景を日々告知しもたらしてくれ
た、神の窓だった。
その窓を今、花の壁を見ながら想い出している。
房々と様々な花、草が美しい匂いを放っている。
入ってくるなり、匂いが違うと人が言う。今までにないねえと言う。
今まではどんな匂いがしたのかしらん。女性たちが敏感である。
今朝も多くの女性たちが来て、写真を撮っていた。
デジカメのシャッターを押してくれと言うので、押した。
お腹が出て写っていると文句を言われた。そんなこと知るかよ。
カメラと自分のお腹に聞いてくれ。そうは言わなかったが、そう思った。
美しいものに女性たちは貪欲である。美は女性の権力志向そのものではないのか
。<秘すれば花なり、秘さざれば花ならず。>
花を美と置き換え、無邪気な俗たる女性たちに贈りたい言葉である。
*佐藤義光花個展「別世界」-2月15日(日)まで。最終日午後5時終了。
*野上裕之彫刻展「i」-2月17日(火)-22日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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