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2017年 07月 22日

「石狩シーツ」の先へー緑陰(2)

北海道大学総合博物館吉増剛造展{火ノ刺繍ー「石狩
シーツ」の先へ}の展示準備が始まる。
それに先だって長編詩「石狩シーツ」誕生の石狩河口
で吉増さんが全編朗読を試みるという。
23年ぶりの新たな朗読。
「石狩シーツ」は再びどんな姿を見せるのだろうか。
地球の裏側で明治以降故国を深く抱きしめていた
ブラジル日系移民社会の人たち。
1992年その中で深い亀裂を感じた現代日本吉増
剛造の孤独。
そこから立ち直る為1994年初夏約半年石狩河口
に滞在し、この詩を書いたのだ。
ブラジルへ旅立つ前年秋見た大野一雄の石狩河口
公演「石狩の鼻曲がり」の舞台。
その記憶が傷心の吉増さんを招き寄せたと思う。
今回の「石狩シーツ」朗読は、鈴木余位さん撮影、
牟田口景さん録音で収録され、会場で流される筈だ。

そんな時石狩の主のような、吉増さんに大切な存在
中川潤さんとやっと連絡が取れる、
生粋の山男で北海道を代表する登山家のひとり。
そしてアイヌの自然観を実践する生き方を保ち、今は
石狩知津狩川口に住む男だ。
ちょうど週末は石狩に居るという。
昨年他界した英国の美術家ロジャーアックリングが
滞在制作した時も彼が寄り添ってくれた。
ロジャーは安心して彼に制作撮影を託してくれた。
ロジャーの死後英国で追悼本が編集出版されたが、その
中に私の文章とともに彼の撮影したロジャーの制作風景
も載せられている。
この本の編集者はこの写真に驚き、他の全てのロジャー
の写真を見たいと連絡が来た、
奥さんとふたりの海岸での制作風景は珍しいという。
作家に信頼される大きな包容力。
それは彼の生き方そのものが醸し出す包容力なのだろう。
吉増さんの詩にも何度か登場する稀有な存在である。

中川さんが来るというので、待っていると郵便屋さんが
色紙大の黒い吉増展のフライヤーを配達していった。
あれ、今頃なんで・・・?と思い見ると、吉増さんの
特徴ある文字が英字で躍っている。
うん?とさらによく見ると、なんとニューヨークの
ジョナス・メカス宛のものである。
住所不在で今頃フライヤー住所に戻ってきたのだ。
しかも不思議な事にこの日私は鈴木余位さんのニュー
ヨーク土産に戴いたメカスのTシャツを初めて着ていた
のだから・・・。
メカスと吉増さんの親交は深いものがある。
現在の「怪物君」草稿もニューヨークでメカスが購入
してくれたと聞いた。

「石狩シーツ」の先へ。
大野一雄、ジョナス・メカス、中川潤、石狩と大きく
宇宙の裾野が螺旋系の渦を巻き出したような気がする。

*5人展「脈」ー7月25日(火)ー30日(日)
 pm1時ーpm8時:鼓代弥生・チQ・岡田綾子・藤川弘毅・酒井博史

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
 
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# by kakiten | 2017-07-22 13:46 | Comments(0)
2017年 07月 19日

身{自然)も、心(観念)もー緑陰(1)

ベルリン帰国前日、谷口顕一郎さんが来た。
明年の札幌個展の打ち合わせをした。
私からの提案は、<ケン&アヤ>である。
以前からそういうサインで作品を発表したい
と彼は言っていた。
ただ彩さんの方が少し引いて遠慮している
らしかったのだ。
14年前サハリン経由で札幌から欧州へ向か
ったふたり。
その道中を日々記録した彩さんの日記は、今も
好評で何よりもふたりの大切な精神の糧ともな
っていると私は感じていた。
途中撮られた写真記録とともに、これはふたりの
大切にして原点ともなる記録である。
その事を誰よりも強く感じているのは、他ならぬ
ケンちゃんだ。
従って自分の作品のサインに、<ケン&アヤ>
と命名したい気持ちはよく分かるのだ。
私は来年の個展を機にそれを実現する展示を考え
たらどうか、と提案したのだ。

私は現在週3回腎臓5時間の治療を続けている。
この時間を私は自分の身体集中時間と考えている。
健康時意識が薄かった身体時間。
そのギャップを深く意識して感じるようになった。
例えば正月や祭日も内臓は休み無く働いている。
その為に決まった治療を時間集中して受けなければ
ならない。
すると多くの健康な普通人は訝しげに問うのである。
何故休日なのに通院するのですか・・?
祭日・休日は人間社会が決めた決め事である。
身体の時間は自然時間で、社会的なものではない。
人間は社会的存在であると同時に、先ず身体を保つ自然
的存在であるのだ。
心身一如、心身一体と言葉で表しながら、心という脳内臓
に主眼がいって<身>の方は軽視されがちなのだ。
<身も心も>と身を先に考えるのが、本来の順序という
ものである。
男と女という二つタイプの人間は、いわば<心・身>
というものを内包する人間を顕していると思う。
女性は身(自然ー内臓言語)をベースに、男性は脳(
社会ー筋肉言語)をベースに生きる生物と思える。
そのどちらかに偏重しても、人として不完全なのだ。
人は<身>という自然存在の言葉にも耳を傾けなければ
ならない。
同時に<心>という社会的存在の観念言語にも従わねば
ならない存在だ。
機能低下した腎臓代行治療という通院に、祭日でも?と
いう疑問は、この<心・身>の分離・社会的存在への偏重
から起きる素朴な疑問なのだ。
そうした考えもあった所為か、男性性・女性性の考えも
<身も心も>の問題と感じていたのである。
<ケン&アヤ>とは、男女平等という観念ではなく、人と
して生きるという観点で、最も人間らしい行為と思えた。

クリスト&ジャンヌという先輩もいるじゃないか。
堂々と<ケン&アヤ>で生きて下さい。
ねえ、ケンちゃん、アヤさん・・・!

*5人展「脈」ー7月25日(火)ー30日(日)am12時
 ーpm8時。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-07-19 12:35 | Comments(0)
2017年 07月 16日

剛造六腑・・・ー泉=メム(22)

札幌国際芸術祭に吉増剛造さんが参加する事で、こちら
にも色々な余波・波及がある。
2011年から毎年連続した「怪物君」の流れがあるので、
当然といえば当然なのだが、私自身はずっと国際芸術祭に
は距離を置いて来た。
新幹線・オリンピックと並ぶ都市一極集中化の流れと位置
付けていたからだ。
札幌は北海道の東京にならなくても良い。
東京化という近代化とは、一線を画すべきと思うからだ。
しかし吉増剛造となると、彼の今邁進している仕事は、その
近代の裾野を抉る五臓六腑ならぬ剛造六腑の脳内臓腑消化・
吸収・咀嚼開示の全身行為で、その真摯な表現に嘘はない。
3・11以降「石狩河口・坐ル ふたたび」で始まったここ
での展開は、明治開国と昭和の敗戦のふたつの日本の近代化
の裾野を問い、立ち上げる全身全霊のラディカルな仕事だ。
六番目の臓器・脳の、知の咀嚼・分析・吸収を、自らのカメ
ラで生々しくドキュメントのように記録し提示する全身・全
霊の実践記録。
それは正に知覚による心の食物を、脳の唾液・胃液・腸液が
咀嚼・分解・吸収する詩人の格闘現場に立ち会う稀有で露わな
内臓言語の磁場宇宙であるからだ。
吉本隆明の最初期詩集1950ー51年「日時計篇」を、戦後
近代の原点素材として詩人は全身全霊の咀嚼・吸収を実践して
、今という時代を噛み砕こうとしている。
この非常にラディカルな行為の記録は、立ち会う事にこそ意味
がある。
描かれた草稿は身体の食材のように、残骸化し晒される。
吉増剛造は1994年「石狩河口/坐ル」展で、明治以降の近
代化の原点と向き合い、2011年3・11以降戦後昭和近代
とふたたび向き合い、対峙している。
それは自らの、産まれ生きて来た時代そのものを裾野から問い
立ち上げる孤独で直向な個の公開行為なのだ。
私はただただ立ち会うしかない。
そこには国際も芸術祭もない。
あるのは札幌という近代を生きてきた自分自身の現実の総体・
すべてである。
この間札幌響文社より出版された「根源乃手」に続き、同
出版社より続編ともいえる「火乃刺繍」が今秋出版される。
出版不可能と思われたこの数年の一連のここでの仕事が、見事
な造本・製本により2冊の書物となる。
そして札幌国際芸術祭での展示は北大総合博物館で来週にも
展示が始まる。
タイトルは「火ノ刺繍ー石狩シーツの先へ」。
大きな円環を見せるように、「石狩河口・坐ル」展で生まれた
長編詩「石狩シーツ」の彼岸を見据えている姿が見える。
大きな螺旋構造を感じる。
全身詩人の、喉の奥の螺旋だろうな・・・。

*5人展「脈」-7月25日(火)-30日(日)
 am12時ーpm8時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き 
 tel/fax011-737-5503

との格闘現場
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# by kakiten | 2017-07-16 15:49 | Comments(0)
2017年 07月 15日

心身ー泉=メム(21)

漢字で書くと、<心身>・・と心が先に置かれるが、
ヤマト言葉で書くと、<身も心も・・>と身が先に
置かれる。
意味する事からいうと、後者の<身も心も>の方が
なにかしっくりくる。
時に英語で、フイジカルーメタフイジカルなどと云
う事があるが、その意味の説明には<身も心も・・>
が一番しっくりくる感じがする。
文字が中国から輸入され、ヤマト言葉は初めて文字を
もち表現される。
その時音訓両用の使い方が生まれ、文字もまたひらかな
仮名文字が生まれた。
ただの真似・模倣ではなく、消化し工夫した文化の力だ。
もし私が先に記したように<心身(シンシン)>よりも
<身も心も(みもこころも)>により共感性を感じると
すれば、私の中のヤマト言葉が生きているからだ、と思う。
ましてフイジカルーメタフイジカルという英語よりもっと
体温に近い。
そうした身体に本来馴染む言葉を、我々は随分粗末にして
はいないだろうか。
横文字を使ってなにか最新で格好良く浮き足立っている。
大体<横文字>という言葉ももう死語となりつつある。
解らない言葉の代名詞の総称がヨコモジだったが、街中
横文字表記だらけの時代である。
日本語すら縦書きは少なく横表記が全盛なのだ。
言葉の魂の種子が日常の土壌に深く深化せず、流行りの風
に吹かれて空に舞い、消えてゆく。

言葉だけがそうした状況に在るわけではない。
<心身共に>そうした状況に、自然・社会両環境において
置かれている気がする。
<身>は、この異常気象の常習化に、<心>は両極の貧富
差そして再びの<ノーモア>と横文字化される戦後近代の
不安に晒されている。
移動・移住・移民の主体性を喪失した心の難民状況が、都市
に始まり村落にまで、ノーモア・フクシマの戦後近代の波は
押し寄せているのだ。
<身も心も>挺して、私たちはその最前線で闘わねばならぬ。
極めて日常の個的最前線で、その闘いは闘われてあるのだ。

*5人展「脈」ー7月25日(火)ー30日(日)
 am12時ーpm8時

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2017-07-15 15:46 | Comments(2)
2017年 07月 14日

歯医者さんー泉=メム(20)

朝のフランスパンに始まり、歯応えあるものが
好きだ。
おかずを挟みガリガリ噛みしめる。
そして熱い紅茶をグビリ・・・。
一気に固いフランスパンが柔らかく溶ける。
そんなある日固い異物が口に残った。
被せた奥歯が外れたのだ。
いつもの歯医者さんに治療に行く。
円山時代徹底して予防治療を教示してくれた
敬愛する歯医者さんである。
網走出身で同じ網走の美術家佐々木恒雄さんの
月夜の漁師と舟の絵を今年購入してくれた。
その絵は今も治療台の前に展示されている。
そこで昨日は約2時間新しく被せる歯を調節し
嵌め込んだ。
何度も微調整し噛み合わせをスムースにする。
欠けた元の歯の亀裂に沿って幾度も幾度も調整
が繰り返される。
あくまで自歯を基本に補強する姿勢は、歯ブラシ
の磨き方、糸クロスの使用と予防を重視した
最初の治療姿勢と今も変わらない。
何度も歯の亀裂に合わせた調整作業、小走りに
治療台と研磨台を往復する先生を感じながら
ふっと谷口顕一郎さんの凹み彫刻を思い出して
いた。
路上や壁の亀裂をトレースし彫刻に仕上げる
彼の姿が、どこか歯医者さんの真摯な作業と
重なっていたのだ。
勿論目的は違う。
しかし亀裂を見詰めその形容をひたすらに
見詰め再生する姿勢は同様の真摯さが感じ
られるのだ。
芸術の事をファインアートと呼ぶ場合がある。
この時アートとは職人芸という意味で、それに
ファインがかぶさって、用のものではない美、
芸術という意味となるのだろう。
彫刻家と歯の医師は、アートの部分では同じ位
真摯に凹み・亀裂に対峙している。
何時かこの治療台に谷口さんも座したら良いな
あ~と勝手に思っていた。
オホーツクブルーの佐々木恒雄の絵画の前で
谷口顕一郎さんや中嶋幸治さんが目を瞑って
口中の海を漕ぐ歯医者の櫓の捌きを感じつつ
背を立てて見開いた目の前にオホーツク海の
青が広がる。
手仕事の真摯さを共有する不思議な治療経験
となる気がする。

*5人展「脈」-7月25日(火)ー30日(日)
 am12時ーpm8時

 テンポラリスペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2017-07-14 12:52 | Comments(0)
2017年 07月 09日

離れていても・・・ー泉=メム(19)

ベルリンからT君夫妻の訪問。
インド、台湾の仕事の流れで札幌にも里帰り。
13年前サハリン経由で欧州へ向かったふたり。
昨年札幌でもH・S賞を受け彫刻美術館で個展も
開いている。
そして茅ヶ崎在住のT氏も岡崎文吉繋がりで、友人
のK氏とともに訪れたいと連絡がある。
そういえばT君の個展では、旧琴似川を辿り、茨戸
に遺る岡崎文吉の自然工法護岸跡も作品の素材とな
っていた。
T氏から添付された岡崎文吉終焉の地茅ヶ崎自宅に
遺された死一年前1944年{昭和19年)建立の
生前墓碑の写真。
遺族に了解をとってあらためて全碑文の写真を私に
送りたいと記されていた。
私はご遺族にT君の茨戸での岡崎遺跡作業写真と仕
上がった作品展示の図録を送りたいと返事する。
百年の時を超え岡崎文吉の自然工法護岸の痕跡と現代
の彫刻作品が交響する。
茅ヶ崎ーベルリンが札幌を経由し、それぞれの作品が
響き逢うのだ。
<想いは現実、現実は想い>(大野一雄)
大野先生、♪ テーク、マイハンド、ですね・・・。

T氏とは残念ながら今回時間が合わず会えなかったが、
T君夫妻とは二度会い、話が弾んだ。
奥さんのAさんは10日にはドイツへ帰国し、T君は
札幌での仕事打ち合わせで17日まで居るという。
Aさんとはベルリンでの彼女の仕事もあり、そう何時も
札幌では会えない。
今回は特に最初に訪れた時展示の三人展「なんのため
にあるのか」のひとりIさんが彼女の書いたサハリンー
シベリア大陸横断の日記を読み興奮して迎えてくれた事
もあり、印象深い故郷だったと思う。
帰り際いつもよりジッと見詰めていてくれた姿が心に残る。
今回二年ぶりだったが次は何時になるかなあ。
K&A、素晴らしい夫婦コンビである。
そして時空を超えて明治の治水学者岡崎文吉の川の蛇行を
基本概念に置いた自然工法護岸跡と平成の彫刻家の作品が
魂の交流を交わす機会が生まれた事も嬉しかった。

真の国際交流とは<おもてなし>ではない。
作品が人が境を越え、魂の交流を交感する事だ。

*5人展「脈」ー7月25日(火)ー30日(日)am12時
 ーpm8時予定。参加作家:鼓代弥生・チQ・藤川弘毅・岡田
 綾子・酒井博史。
*及川恒平×古館賢治ライブー7月中旬


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# by kakiten | 2017-07-09 14:14 | Comments(0)
2017年 07月 04日

過ぎてゆくものー泉=メム(18)

なにかで読んだ事がある。
人は何時人となったのか。
人類以前のふたつ猿人の化石を調べ、そのひとつに
添えられた花の化石が見つかったという。
弔う気持ち、それが人類の先祖の証(あかし)と
書かれていたように思う。
事実かどうかは別にして、なんとなく納得した記憶
が残っていた。

過ぎゆくものを惜しみ悼む気持ちは、人特有の精神
と思うからだ。
人は人だけではなく共に過ごす日常のさまざまなモノ
たちにも、そうした愛情を抱いてきた。
そこに新旧の過激な差別・区別はない。
新しいモノは新しいものとして、古くなったモノは
古くなったものとしてそれを愛おしんだのだ。
きっと人は人と同じ命をそこに見ていたからだろう。
絹の衣装にも木の箱ひとつにも、人の手が重なり人の
手が触れ創っている。
その過程の記憶が、モノに命を宿らせるのだと思う。
ある時代まで人は、間違いなくそうして自らの生の
日常と重ねてものと接してきた気がする。

先日終わった三人展「なんのためにあるのか」のひとり
桑原菜穂さんは、群馬の出身で生家の実家にはかって
お蚕(かいこ)さんの棚が在ったという。
絹の故郷だ。
日本近代初期唯一の輸出産業が絹織物である。
絹の道を経て横浜へ。
それこそ異人さんのもとへ海を渡ったのだ。
やがて安価で大量生産の化学繊維に押され廃れるが
、絹織物を培った女工さん、織姫たちの手の命は、
桑原さんの展示した百余年前の打ち掛けに間違いもなく
宿っていた気がする。
蚕と人の手が糸で繋いだ絹の纏いもの。
その過程こそがきっとモノに命を宿らすのだろう。

森羅万象、すべてが過ぎゆくモノである。
しかし過ぎゆく<時間>すら、記憶の炎となって
時空の小宇宙に命を宿すのだ。
白い空き函の中で、ふっとそんな事を思っていた。

*5人展「脈」ー7月25日(火)ー30日(日)
 正午ー午後8時。:鼓代弥生・チQ・岡田綾子・藤川弘毅
 ・酒井博史。

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# by kakiten | 2017-07-04 15:28 | Comments(0)
2017年 07月 02日

纏うものー泉=メム(17)

二本足となったか弱い動物・人間は、時代・時代
なにかを纏い進化してきたと思う。
前足が両手となり脳が発達して知的意識が深化
し、<纏う>という第二の皮膚を創ったと思う。
この世に生を受け赤子が最初に纏うのは産着という
衣である。
それから成長と共に、幾つもの衣を纏う。
七五三、入学、成人、結婚と社会的衣も変化する。
袖を通す、身に纏うと、体を基本に衣はあったが、
身体より外形に比重を置いた偏重化も、社会的
現象として見られる場合もある。
コスプレや独裁国家の制服、会社人間の背広一辺
倒等々の社会現象だ。

捨て去られた廃品、部品などをあるものの片鱗と
して、その物のかっての全体・実体を復元ではなく
再生として創った作品が千葉栄さんの廃品造形である。
ものの断片ではなく、片鱗として彼は柔らかなイメージ
を膨らませ造形する。
それはユーモアに満ちた彼の心が託したモノの片鱗・
再生なのだ。

桑原奈穂さんは実家に残された百余年前の着物をテー
マにそのボロボロになってなお美しい着物から、その
エッセンスを再生する絵画を着物とともに展示している。
これも断片ではなく、片鱗として本来の美と衣を纏う身
体性の回復がテーマと思う。

五十嵐阿実さんは拾ってきた小石や野草と、その周りの
空気・空等を撮影した写真が展示されている。
コンセプトを記した文章も含めて、今展示に一番意志的
に関わっている存在だ。

本来主体となる身体や用途目的が空となって、断片的に
見捨てられつつあるものを、断片ではなく片鱗として再生
する試み・志向こそが今展示の主題だ。
喪われ見捨てられつつある身体・主体を、自らの心・魂
としてその中に再生する。
もう一度、ものの片鱗の内部に<袖を通す>行為・魂を
<纏う>行為・・・。
人は身体だけでなく、心という魂にも芸術・文化という
衣を纏い作品として顕す生き物だ。
そして素裸・素魂では生きられない、哀しくも愛すべき
生き物なのだと思う。

巨大で強力な社会構造・メガロポリス化、電子構造化が
深化する人間社会で、身体性は断片化し、形が先行して
内なる容(かたち)の形骸化が進む。
断片から片鱗へ、片鱗から実体の再生へ。

この三人展はそうした想いを磁場としながら、今日終わる。
「なんのためにあるのか」
この問いは三人だけでなく、見た人すべてに発せられた
次なる、明日への呼びかけでもあるだろう。

*三人展「なんのためにあるのか」ー7月2日午後7時まで。

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# by kakiten | 2017-07-02 12:49 | Comments(0)
2017年 07月 01日

三人の気合いー泉=メム(16)

三人展「なんのためにあるのか」。
このタイトルの通り、展覧会をするという三人の
気合いが凄い。
展示物は百余年前という古い着物や日常見捨てられた様々な
道具、部品、そして路傍や岸辺の石や貝殻が主体だが、この
三人には展覧会が同時に自己の<なんのためにあるのか>と
いう生の行動体として位置している気がする。
仕事の合間を繋いで会場に立ち、訪れる人とそれぞれの作品
を通して語り合う姿は、真剣、かつ楽しそうだ。
日常の合間に培い築き上げてきた表現体。
時代に見捨てられたものに託した己の存在の証(あかし)。
そこを拠点に、純粋な生の命を紡いでいる。
そのテンションの高さ故か、ひとりがダウンする。
展示に託する力より、自らが参加し感じる力の方が勝っていた
結果とも思える。
今展示の場合、日常と深い関係のある物たちが主役である。
その分見る人も素(ス)で多くの反応を見せるのだ。
例えばその内のひとりCadbunnyさんこと、桑原菜穂さん
の場合、百余年前の古着物が展示の主役である。
この古着物そのものが保つ用を喪った後もなお語りかける感動が
展示のキーともなっている。
従って作家は、訪れる他者とともにこの古衣装を通して、対話を
続ける事ができるのだ。
素の刃が素の自分に直接刺さることは少ない。
元々作品という物はそういうものである。
人は素で生きてはいけない。
純粋な魂は作品という容れ物に封印されてこそ純粋に
息付く。

その作品へ入魂する回路が不十分だと、人は素と素で
向き合い著しく消耗する場合がある。
三人のひとりは、そのダメージを受けたのだ。
人は色んな容れ物の中で生きている。
心は肉体を纏い、身体は衣を纏い、人は社会を纏う。
素の心は、芸術・文化という容れ物を得て、その内に
こそ呼吸する。
作品は、魂が着こなしてこそ価値がある。
その境界を逸脱すると、素の魂は傷つきボロボロになる
瞬間もあるのだ。

展示の場もまた、ひとつの衣でもあるだろう。
そこに素の魂は、作品を媒介とせず素となり傷つき臥した
と思える。
心の衣を着直して、また立ち上がって下さい・・・ね。
Iさん・・。

*三人展「なんのためにあるのか」ー7月2日(日)まで。
 :本日予定の「街歩きワークショップ」は都合により中止致します。
  
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# by kakiten | 2017-07-01 13:34 | Comments(0)
2017年 06月 29日

時を超え纏うものー泉=メム(15)

今回江戸末期のものという着物が展示されている。
3人展のひとりCadbunnyさんのものだ。
彼女の曾祖母のものという。
裏地はすでにぼろぼろに傷んで、展示時その絹の
一部が剥落し、床に散っている。
しかしその内側の赤と外側の黒の対比は鮮烈で、絹の
保つ存在感は少しも損なわれていない。
背中の黒地に拡がる刺繍も黒地に映え見事なものである。
もう用としての役割は果たせないだろうが、この着物を
創った匠の技は劣るどころか、時と傷みを経て益々輝いて
さえ見えるのだ。
かって纏っていた人の身体は無くても、どこかその身体
の温かみが宿っている。
着物という物は不思議なものである。
身体に添って身体を包む。
先に衣装という形が、あるのではない。
人という身体の容(かたち)が纏うのである。
帯や袖丈はその身体に合わせて調えられる。
そしてその美は、纏う事で全身で感受される。
掌全体で、体全体で、人の生活の風景のように美がある。
特化した額縁の内、非日常の美ではない。

そんな事を考えていて、ふっとレトロスペース館長の坂
一敬さんを思い出した。
そして電話する。
するとすぐこれから行くよ、と応えてくれ、間もなく
副館長の中本さんとともに来てくれた。
恒例の坂ビスケット一箱土産に・・・。
今回の三人展、様々な置き忘れられ、見捨てられたもの
の再生・再発見を、それぞれの三人の目線から再構成され
た展示に、坂さんも共通する眼があって感慨深げであった。
着物に触れ、2階回廊に座り込み、長時間見ていた。
その後懸案の私とのトーク資料「’89アートイヴェント
界川遊行」のヴィデオを見せる。
札幌円山地区をかって流れていた界川。
都市化と共に暗渠化され見えない川となったこの川をその
かっての流域にアートで繋ぎ流れを再現した1989年の
イヴェントだ。
ありとあらゆる一時代の物品を蒐集し展示しているレトロ
スペース。
マニアックな一部の物ではない、その根底的ともいえる激し
い全方位目線は時代に対峙する後衛の保つラデイカルさと
いえる。
レトロスペースはその意味で、坂さんの個的<全>共闘
なのだと思える。
現代の物質文明がその先端志向で切り捨て消費し捨て去る
物たちを、徹底し受け止め問い続ける。
背後に消え去る時代を背中に背負いつつ、眼は前方の移ろ
う今を睨みつけている。
最前列にして最後尾のラデイカルな精神である。

今は消えつつある界川・円山の、空・建物・路・川。
ものだけではなく、風景もまた消去されて今がある。
懐古ではなく、同時代の事としてふたりで語り合えたらと
感じていた。、

20代若い表現者たちと坂さんの同じ視座の眼差し、
その邂逅が、束の間訪れていた時間だった。

*三人展「なんのためにあるのか」ー7月2日(日)まで。
 am11時ーpm7時
 :7月1日(土)午後2時~「街歩きのワークショップ」
  参加費1500円お茶・お土産付き

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
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# by kakiten | 2017-06-29 11:59 | Comments(0)